12.15.2010

ザ・ウォール LIVE パート2


「壁」というテーマは社会的、政治的な印象が強いけれど、「ザ・ウォール」の中では無意識に、あるいはトラウマに伴って人間が作り上げてしまう心理的な意味での壁にも言及している。鬱病やひきこもりなどのような心の病がストーリーの主人公であり、作者の分身でもある「ピンク」に壁を構築させ、四面楚歌の状況に自ら置かせている。この作品を創作していた頃の心境をロジャー・ウォーターズ自身が振り返り、「あの頃はロックンロールからはまるでかけ離れた精神状態にあった」と、このコンサートの最後でもそう言っていた。

このコンサート自体はアルバムに忠実な構成で、一部は二枚組アルバムの一枚目、休憩の後の二部は二枚目となっている。このアルバムを幾度となく繰り返し聴いてきた自分にとって、音楽面では特に目新しい部分は無かった。むしろ、ほんの一曲か二曲を例外として即興などをそれほど追加せず、アルバムのほぼ原型で演奏してくれたおかげで感激は倍増したと言っていい。


これはギターソロにも言える。デイヴィッド・ギルモアのパートをこのコンサートで演奏したのはデイヴ・キルミンスターというギタリストだった。彼はギルモアのソロを一音一音実に忠実に演奏していて、ギターソロの最高峰のひとつとも言われる「コンフォタブリー・ナム」のソロも出来上がった壁のてっぺんから見事に再現してくれたため、曲の心情が直に伝わって鳥肌ものだった。


そして最後に「壁」は崩れ去った。話には聞いていたが、発砲スチーロールで出来ているかもしれない壁ではあってもライブで実際に観ると圧巻だった。ロジャー・ウォーターズは最後の挨拶で「国々の間に立ちはだかる壁が全てこのように崩れさる日が来る事を願っています」と言った。あの素晴らしいコンサートの最後に言われるとさすがに説得力満点だ。


因みに、一緒に行ったドイツ人の友達がこのショーの部分をいくつかiPhoneで撮ってYouTubeにアップしている。他にも多くのライブ映像がアップされているので、是非チェックして下さい。

ザ・ウォール LIVE パート1


1980年、ピンク・フロイドがリリースと同時に世界を震撼させた「The Wall」を引っさげてアメリカンツアーを行った頃、僕は今日の飯にも困る貧乏学生で、あのショーは観たかったけれど断念せざるを得なかった。もっとも、コンサートのセッティングがあまりにも大規模だったため、アメリカではニューヨークとロスアンゼルスだけでしか公演されなかったのだが、それでもあれは観たかった。

あれから30年。ピンク・フロイドによる演奏ではないけれど、この作品のコンセプトを練り上げ、ほぼ全編をクリエイトしたロジャー・ウォーターズによる演奏を観る機会が遂にやって来た。しかもここサンノゼで。チケットは4月に買った。安い買い物ではなかったが、これに限っては「そういう問題じゃない」。

30年前と言えばパソコンという代物さえ世に新しく、IBMの「PC」でさえまだ市販化されていない時代である。当時から今までに起こったテクノロジーの進化と向上は、このコンサートのプロダクションにも大きな変化をもたらした。待った甲斐はあった。

最初はステージ両脇にしかなかった壁がショーの進行とともにステージの中央にまで築かれていく。出来上がっていく壁には6台の完璧に同期されたプロジェクターが様々な映像を投射している。



興味深いのは、大スクリーンと化した壁に6台の完璧にシンクロされたプロジェクターから投射される映像が戦争、貧困、格差社会、権力の横行など、現在世界中で起こっている悲劇を痛烈に批判し風刺していること。この点、いかにもロジャー・ウォーターズ、という感じだ。

「ブリング・ザ・ボーイズ・バック・ホーム」という曲では、「Bring The Boys Back Home」のレタリングが画面に現れ、観客の大声援を呼んだ。アフガニスタンとイラクへ出兵した兵士たちを帰還させろ、というメッセージは30年前にも増して現在のアメリカ人やイギリス人には直に響く言葉なのだろう。もっとも、カリフォルニアという政治的には革新系の人々が多い土壌だから、なのではあるが。


「The Wall」という題材は、様々な普遍的なテーマを内蔵した作品である。ベルリンの「壁」が崩壊した直後に多くのアーティストが参加して演奏された事も当時は非常にタイムリーだった。子供に対する悪質な教育や虐待は今でも続いているし、戦争や貧困に至っては悪化の一方をたどっている。これはそれら全てに疑問や反論を投げかけるロックミュージックの傑作と言えると思う。

12.06.2010

ブログのタイトルについて

このブログは以前「コテージライフ」だった。2010年1月、サンノゼに引っ越した後に「アメリカ中流長屋の生活」にタイトルを変えたのだった。日本の皆さんの中には「中流長屋」って何だ?と思われる方も多いだろう。

サンノゼ市内のウィロー・グレンというご近所にある通称「タウンハウス」と呼ばれる分譲住宅に住んでいて、「長屋」というのはその建物の形容名称と考えて頂ければ良いと思う。タウンハウスは一戸建てではない。日本でマンション、アメリカではコンドミニアムと呼ばれるビルの中の住居でもない。隣接する住居と両側の壁を共有してはいるけれど、横に長い建物をカマボコのように縦割りにして、地階からその上までが一世帯の住居であるもの、ということだ。

日本語ではどのような呼び方をするのかが分からなかったから「長屋」と呼ぶことにした。

「中流」の部分は、タウンハウスのオーナー、住人達が一般に中流階級だから。

そしてその多くは結婚直後か一人目の子供が生まれた若いカップル。そして僕のような中年の独身者達や、以前住んでいた大きな家を売って手頃で管理し易い小さ目の住居にダウンサイズして移り住んだ人たち。僕が住んでいるタウンハウスの住人達も例外無く中流階級だ。

まぁそんな感じでブログのタイトルを決めた、というわけ。

レトロ・ジャパン


今月末に52歳という年齢的なものも影響しているのか、最近レトロな日本に目が行ったり、関心を呼び起こされたりすることが増えた。昭和33年生まれだからか、時代設定がその頃の映画などに出会うと、自分が生まれた頃には日本はどんな様子だったのかなどが気になったりする。例えば「ALWAYS:三丁目の夕日」では昭和33年に当時まだ建設中の東京タワーのCGなんかが画面に出ると、「おお〜」と一人で感心してしまったり、「オリオン座からの招待状」ではその頃の京都のCGを観ただけで感激したり、なのだ。

カラーテレビが登場した頃の事もかなり鮮明な記憶がある。まだ幼稚園に居た頃、東京オリンピックに向けて聖火ランナーが平安神宮と京都会館の前を走ったのを見た記憶も。

自分が生まれた当時の様子を再現した映画のシーンで見る限り、あの頃はまだ子供はもちろん大人達にも「イノセンス」、つまり無垢で純情なところが十分あったのだと思う。そんな考えが次々と浮かんで来ると、最近つまり日本のバブル崩壊後に生まれた世代が、自分たちが生まれた頃の日本を振り返るようになったら、一体どのように感じるのだろうか?とも考えたりする。

「あの頃は良かった」という考えばかりには固執したくない。今僕が置かれている状況は911同時テロ後のアメリカだし、日本へ行ってもバブル崩壊後の日本はまた続いている。何も元には戻らないから。とすれば、前を向くしか無い。

11.30.2010

11月の京都


サンクスギビング(感謝祭)の一週間、京都に居た。勤労感謝の日の休日がある11月末の週には縁があって、2007年に前妻が東山の法然院で個展を開いた時以来、ほぼ毎年のように秋の京都を訪れている。が、寺社仏閣を訪れることはそれほどなく、主に町中を歩き回って楽しむ。

コーヒー好きとしては堪らない町だ。今やチェーン系と効率の良さが全面に出ている東京では、美味いコーヒーを味わえる店の存在感はあの大都市の広さもあってか、その密度はむしろ希薄だと感じる。もちろん、何でもある東京には美味いコーヒーを飲ませる店は無数にあるのだが。

京都は代表的な「日本の美」を見たり感じたりすることが出来る町だと言われるが、町の全部がそうなのではない。現代化した町だし、必ずしも良いデザインとは言えない要素も多くなっている。アメリカに住んでいる者がハッとするような「日本の美」は、寺の庭や仏像、焼き物、食べ物の他にも、どちらかと言えばひっそりと、町中の日毎の生活の中にある、と思う。

11.15.2010

もう一つのブログ

この週末にもう一つのブログを始めた。以下のリンクで:

…soundtraveller…

一応、このブログの右側の欄にあり「Links」にもリンクを貼った。

このブログは文章と写真が中心だが、tumblr.comでのブログはフォトブログと言っても良いだろうか。少なくとも、そちらでは写真を中心にアップしていきたいと思っている。文章は書かず、写真の短い説明を日本語と英語で付記するだけにした。

11.11.2010

サンノゼという街


僕の住んでいる街はサンノゼ、またはサンホゼ。その中のウィロー・グレンという区域に家がある。サンノゼは変な街だ。人口は100万人ほどでアメリカでは第10位。それほど人が多い都市というものは通常それなりに賑やかな界隈がいくつかあり、文化があり、人々が歩き回るものだが、サンノゼにはそういうものが見当たらない。

確かに街の中心にはダウンタウンがあり、アドビ・システムズなどハイテク企業の本社ビルや支社オフィスがあり、それほど悪くない現代美術館、テクノロジー系の博物館、飲食店なども揃っている。ダウンタウンのすぐ隣にはサンノゼ州立大学もある。が、何かが決定的に欠けていて、街としてはかなり稀薄だ。

文化は無い。自称「シリコンバレーの中心地」とも言ってはいるが、ハイテク産業はあくまでもハイテクにしか過ぎず、金はある程度集まるのだろうが関心が湧くような面白さを生むには至らない。伝統的な文化やサブカル的な面白さも無い。

面白い事に、ウィロー・グレンの住民達は「ウィロー・グレンに住んでいます」と自慢気に言うが、「サンノゼに住んでいる」とは誰も言わない。確かに、住居地として「ウィロー・グレン」の方が「サンノゼ」よりは遥かに響きが良い。その背後にはウィロー・グレンの方が住宅地としてより良い場所とされている事、治安もサンノゼ全体の平均よりはるかに良い事など現地の人たちの間で了解されているという理由があるのだろう。ローズガーデンという高級住宅地もあるのだが、その住民もサンノゼに住んでいるという感覚は持っていないのではないだろうか。

個人的にはサンノゼのダウンタウン自体にはほんのたまにしか行かない。どうせ街に繰り出すのならサンフランシスコまで行った方が断然楽しいし、こじんまりと環境が良い街ならサンタクルーズがある。

ただ一つ、サンノゼに依存するのは、ダウンタウンの傍にジャパンタウン(日本町)がある事だろう。その小さな地区には旨い定食屋があるし、サンノゼ豆腐では絶品の豆腐を作っていて、饅頭屋だってある。日本食スーパーやアニメグッズを揃えた店もある。

全く変な街だ。

11.07.2010

早くも



車で10分も行かないところに、有名ブランドがずらりと並ぶ「サンタナ・ロー」というショッピングセンターと、大きなショッピングモールが隣通しに並ぶ一角がある。そこへ行くハイウエーの出口がこの週末からいきなり渋滞し始めた。クリスマスショッピングのシーズンが始まった。

ハロウィーンが過ぎたと思いきやリテールの店頭は早くもクリスマス商戦に向けて模様替えしている。僕がアメリカに渡った70年代、そしてその後20年ほどは、商店がクリスマスショッピングに備えてデコレーションを始めたのは11月末のサンクスギビング(感謝祭)の週末が明けてからだった。90年代になると、ハロウィーンが終わったらテレビでクリスマスモードのコマーシャルが出始め、近年に至ってはクリスマスのデコを見始めるのが異常に早くなり、大きなショッピングモールでは9月にはハロウィーン、サンクスギビング、クリスマスのデコが全部出てしまっているところさえある。つまりお化け、カボチャと紅葉と七面鳥、クリスマスツリーが同時に飾られるのである。

大手多国籍企業から個人経営の商店に至るまで、クリスマス商戦は死活問題であり、年に最も売り上げが高くあるべき時期となった。この時期に売り上げが芳しくなければ企業や商店は確実に潰れる。クリスマス、年末を含む四半期決算でその判定が下る。

アメリカの消費者はこの30年間で確実に年末消費パターンを変えられてしまった。洗脳されたと言っても良い。

日本のクリスマスも企業や商店の書き入れ時だろう。宗教的には無信仰に近い文化だから、物質が先行するのはやむを得ない。独身者がロマンチックなクリスマスイブを一緒に過ごす相手を探すのにやきもきしたり、彼/彼女のプレゼントを選んだり、カップルがホテルとレストランの予約に奔走したりする。テレビの連ドラでは必ずと言って良いほど「クリスマスのミラクル!」っぽい過剰演出のクライマックスがある。ライトアップスポットは即デートスポットやおばちゃんの集団がドカドカワイワイ出かける場所になる。バカバカしいと言ってしまえばそれだけだが、ある意味微笑ましくもあり、可愛くもある。日本化したクリスマスには宗教絡みの「嘘」が無い。キリストの誕生日もクソもなく、楽しく、出来ればロマンスに恵まれ、色鮮やかに楽しい季節。それで良いと思う。

アメリカというこの消費大国では、クリスマスは一年で最も無駄で最もエゲツナイ消費が行われる時期、それだけだ。が、キリスト教信者の数が多いためか、一応キリストの誕生日という、今では後付けとさえ思えるような名目上のカモフラージュを装う。

ガソリンの燃費が最悪のでっかい車を飛ばしてショッピングモール、ショッピングセンターを走り回り、入り口に最も近い駐車スポットをめぐってテンションを上げて競争したり言い合いになったり。モールの中では貯金があろうが無かろうがクレジットカードに全てをゆだね、クリスマス用に吊上げられた高めの値段でそれほど必要でもないものを買いまくる。その反面教会の礼拝にはちゃんと出て「クリスマスは感謝の季節。恵まれぬ貧しい人にも幸あるように」などと真顔で祈っている。恵まれない人たちにはこれっぽっちも恵む事がないか、税金の控除の対象になるという理由も手伝って適当に寄付するくらいだろうか。きれいごとはともかく、「クリスマス・キャロル」のスクルージのような連中がほとんどである。普段は性格がいい人でもクリスマスショッピングになるとストレスが貯まるのか、嫌な面を露呈することさえある。

僕に言わせてみれば「嘘だらけ」なのだ。クリスマスだから買い物しまくって、美味いもん食いまくって、彼/彼女とロマンチックに過ごして、子供が欲しいというものを買ってやって、ついでに自分が一番欲しいものもチャッカリ買って、友達や同僚とホリデーパーティーで飲んで騒いで・・・だけの方がむしろ賛同出来る。

一度で良いから日本で奇麗な女性と「ロマンチックなクリスマスイブ」なるものを過ごしてみたいものだ。

11.05.2010

季節の味


アメリカに住んでいて日本の人たちが羨ましいと思う事の一つに、「季節の味」がある。高価なものから定食屋で安くて美味しく食べることが出来るものまで、実に様々な四季折々の食材が店頭や家庭料理や居酒屋やレストランに出る。

「あぁ、これが食べられる季節になったか」という文句はちょっとオッサン臭くもあるけれど、若い人たちだってそう思っているに違いない。

さて、アメリカで食材を見て季節を感じることはそれほど無い。新鮮な野菜や果物は豊富だが、巨大なスーパーの膨大な食材を見渡しても年中同じように見える。魚は通常エゲツナイ冷凍物ばかりだし、新鮮な魚でも季節によって魚の種類が変わるようには見えない。季節を感じるのは、温室ものではなくて夏の陽を浴びて育ったトマトの瑞々しさを口の中で味わう時くらいだ。

別の言い方をすればアメリカの普通のスーパーで売っている食材は、そのほとんどが人口的に管理された環境から収穫を得ているものだということだ。年中欲しいものが手に入る、というのは眉唾物だと思っていい。さらに言えば、日本で食材を売っている店でそのような品物が増えているとすれば、それはむしろ「警告」と解釈した方が良いと思う。地元の市場、八百屋、果物屋を是非応援して頂きたい。

例外は「ファーマーズ・マーケット」と呼ばれる、区々で通常週一で開かれる野菜と果物の市場。農家の人たちが新鮮な収穫を売りに来る。カリフォルニアでは有機農法で育ったものが多く見られる。そこで手に入る食材は新鮮度でも健康度でも、そして美味しさにおいても一般のスーパーのそれとは格段の差がある。

秋は味覚が最も豊かな季節。大いに食べて下さい。

11.03.2010

写真


写真を撮るのは好き。旅をしていたときはキャノンのデジタル一眼レフとバカちょんで撮りまくって楽しんだ。旅を終えてカリフォルニアの生活に戻ってからは一眼レフを持ち歩く事は少なくなり、バカちょんをハイエンドのキャノンS90にアップグレードしたくらいで、ポケットサイズのカメラを持ち歩いてちょこちょこ撮っていただけだった。

初世代iPhoneが出た時はカメラの性能が全く良くなかったので使わなかったのだが、iPhone 4が出てからはそのカメラの性能と手軽さが気に入って大いに使っている。出かける時はiPhone 4とキャノンS90を持って状況によって使い分ける事が多い。

でも最近またちょっとした大きさのカメラを持ちたいと感じるようになった。デジタル一眼レフはなんか大きすぎ、また重すぎて動き難い。昨年辺りからサイズは小さいがレンズ交換も出来る製品が出ているようなのでちょっと考えている。

11.01.2010

サンフランシスコ・ジャイアンツ優勝!

ニューヨークからサンフランシスコに移って以来、苦節56年。SFジャイアンツがついにワールドシリーズで優勝!

これはかなり盛り上がると思いますよ。

普段はサッカー以外のスポーツにはあまり関心はないんだけど、やはり地元のチームが活躍すると嬉しい。

この快挙を祝う「スティール・ユア・フェイス」のシャツが出たら買っちゃうかもしれないな。


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場所:アルマデン・ウォーク・ループ,サンノゼ,アメリカ合衆国

8.15.2010

Rush 2010


先週の月曜日、マウンテンヴューのショアライン・アンファイシアター(野外劇場)であったRush(ラッシュ)のコンサートに行ってきた。大学在学中以来、常にチェックして来たなじみ深いバンドだ。彼らのライブを初めて観たのは1984年の秋、オハイオ州のデイトン。「Grace Under Pressure」というアルバムをリリースした時のツアーだった。

今年のツアーは、Rushの代表作、代名詞と言われるアルバム「Moving Pictures」を全編最初から最後まで演奏するというネタが組み込まれたもの。

Rushのファンは圧倒的に男性が多い。その理由はいろいろある。(1)レパートリーにラブソングが全くない。これは決定的。(2)ベーシスト/リードヴォーカルのゲディー・リーの歌声を嫌う女性が多い。(3)各バンドメンバーはそれぞれの楽器においてロック界を代表する優れた演奏家であるため、彼らに憧れる男の子/オッサンが多い。(4)サイエンス・フィクションや社会情勢にインスパイアされた歌詞が多く、それに共感するのが男性である事。しかもコンピューターナードもなぜか惹かれるらしい。

つまりRushはあまり女の子たちと縁がないロッカーキッズ、シャイで頭が良くて眼鏡をかけていて本を読むのが好きな男の子たち、どこかナード/ギーク指向な男の子たちが成長する過程でずっと聴き続けるバンド、のようである。

バンドメンバー本人たちも今年57歳。今も斬新な新曲を書いてレコーディングを続けている。ライブでも、バックドロップの大きなスクリーンに映し出された彼らの表情が実に楽しそうで幸せそうである。目玉の「Moving Pictures」も素晴らしい演奏だった。ファンはアルバムを全部丸暗記していて、歌詞はもちろんスネアの入れ方まで口で再現しながら聴いていた。

ニューアルバムとリリース後のツアーがまた楽しみ。

8.09.2010

ヒッピー60歳の誕生日


この土曜日、ヒッピーの友達マーティ・フェルドマンが60歳の誕生日パーティーを開いたので行って来た。当然の事ながらパーティーにやって来た150人ほどの家族と友人たちも彼と同年代、しかもヒッピーが多かった。このグループの中では、僕はまだ若い方だった。

この日の彼の出で立ちは70年代に着ていたと言うヒッピー姿。30年以上も前の服が今もちゃんと着れるというのが凄い。彼の半生を写真のスライドショーと音楽で綴ったビデオが流され、サイケデリックに装飾された一枚一枚の写真に笑いと歓声が溢れた。

マーティはニューヨーク州出身の典型的なユダヤ人。彼の学生時代は60年代でヒッピーによる平和運動が盛んだった時代。彼もフラワームーヴメントの本拠地であるサンフランシスコへと移って来た。カリフォルニア州で弁護士の免許を取得し、ヒッピーの立場から人権の尊重や公平な社会をモットーとして掲げた弁護士として活躍。その間も「人生を楽しむ事」を決して忘れず、グレイトフル・デッドのコンサートツアーを追いかけてアメリカ全国を旅し、多くの女性を愛し、大勢の友達を作った。一生独身男か、と思いきや55歳で「出会い系サイト」で知り合った女性と結婚。今も幸せに結婚生活を送っている。コンサートへ行く事も欠かさない。

実に自由と楽しい想い出に満ちた人生ではないか。そしてこれからも末永く彼の豪快な笑い声が聞けるだろう。

パーティーもそんな彼の生き方を反映してとても楽しいものだった。

8.05.2010

7月の出来事

6月29日から7月5日まで、毎年恒例のハイシエラ・ミュージック・フェスティヴァルへ行ってきた。その間、妹と双子の姪っ子たちはインディアナからカリフォルニアまでアメリカの西半分以上を運転で横断(!)。あの「ルート66」を辿ってその終点まで行き着いた後、太平洋沿岸を北上してサンノゼの我が長屋まで来てくれたのだ。

入居して以来この長屋には宿泊客など一人もおらず、猫のウィローと僕の静かな生活だったのだが、フェスから戻ったら妹親子に母も加わり、なんとまあ賑やかな事だった。

双子の姪たちも13歳。育ち盛りのティーンエージャーである。彼女たちとは今回初めてしっかり「会話」できたという実感があり、自分も初めて「おじちゃん」としての自覚が芽生えた。なかなかいい気分である。

働き者の妹は毎日とても美味しい夕食を作ってくれたし、インディアナへ出発する前にはかなりの量の料理を残しておいてくれた。この写真は餃子、ナスの煮浸し、カボチャ煮を暖めるだけで素晴らしい夕食の準備が出来た図。妹が残してくれた食物は完食して今はもう無い(涙)。

8.02.2010

選択肢の問題


熱中症で搬送されたり亡くなってしまう人たちが続出している日本。そんな天候の中で未だにスーツとネクタイで働かなければならないリーマンたち。スーツ+ネクタイ姿は武士の二本差しに相当するのだろうか?僕に言わせればあの暑さの中でさえ企業や雇い主が社員にそんな服装を強いる事自体狂気沙汰なのだが…

さて、そんな職場環境でリーマン侍たちには「選択の余地」はあるのだろうか?

この疑問を巡って義父と議論した。彼は日本ではそんな選択の余地はないと言う。僕にしてみれば規則で固められた日本の社会でも選択肢はあると考えている。そもそも、そのような職場環境を善かれと思って選んだのは本人なのだ。幼少時代から「進路、進路」と急き立てられて成長した結果である。あるいは、自己の向き、不向きを意識外に放り出して「有利な進路」だだけを優先してきた結果である。どんなに頭脳が優秀でも不向きな仕事をしていたら誰でも落ち込むしストレスも貯まるというのに。

客相手の企業職、主に営業の人たちは「お客さんと会わなければならないから」スーツ+ネクタイなのだろう。客の方が前もって営業目的で来社する取引先のスタッフに「この暑さですから服装はご自由に」と伝える事さえも期待できない社会なのだろうか?

自己の生活環境を自分でクリエイトすれば良い。そんな仕事が嫌だったら辞めれば良い。それが無理なら日本を出れば良い。もっとも、そこまで情熱と優先性を持って日本の夏の仕事着対策を考える人は少ないだろうけれど。

もっとも、この意見の対象となるのはクビにならないことを前提としている正社員に限定される。リストラされた多くの人たちにとって、そのような選択肢が無いという切羽詰まった状況は理解しているつもりだ。

あるいは、こんな意見は日本の社会を全く知らない僕の戯れ言にしか過ぎないのだろうか?

外から見た日本の社会は、今や常識破れの考え方を導入しない限り現状を打破出来ないところまで来ているように思うのだけれど、日本では「常識」の認識とそれへの執着が当然とされ個人にも要求されるから何も新しい動きは出てこない。

アメリカでは1960年代に「Tune In, Drop Out」という言葉が出てきた。自分の感性や考えに訴えるものにtune in(注目、賛同)し、それに合わない既成のシステムからドロップアウトせよ、という意味で僕はとらえているのだが、50年後の今、日本ではぴったりのメッセージではないだろうか?少なくとも先進国と呼ばれる国々の社会では、個人レベルでそれが可能になっている。

もっとも、かく言う僕自身もアメリカではただのリーマンのおっさんである。が、暑い日は短パン、軽いシャツ、草履で出社する。心地いい服装の方が仕事に打ち込み易く、効率も高い。会社側もそれを良く理解してくれている。

2.03.2010

新居

1月9日にサンタクルーズのコッテージを引き払い、空っぽの新居に住み始めた。その一週間後、前の家から出して一年以上倉庫に入れてあったものも全て新居に移し、倉庫を引き払って、晴れて全てこの家に移すことが出来た。

空っぽだった時に数枚写真を撮っておいたものから2枚ご紹介。

リビング/ダイニングからキッチンに向かって:



キッチンからリビング/ダイニングに向かって:



住み心地はなかなか良い。大きな違いと言えば、まず通勤が山越えを含めて35〜45分だったのが15分に短縮されたこと。これは非常に助かる!日本食の買い出し、日本語ビデオのレンタル、日本食だけでなく、インド、中華、タイ、ベトナムなどのエスニック料理店もシリコンバレー側に来るとどこにでもある。当然、住民たちの人種もサンタクルーズに比べて多種多様になる。今は雨期なのだが、木が倒れて交通に支障をきたしたり、停電もあまり無い。これらの件についてはシリコンバレーの勝ち。

が、サンタクルーズを離れて失ってしまったものも多い。新鮮な空気、海と山の風景、町中どこにでもある健康食料品店の数々、美しい星、明るい月の光。やはり自然に要素が多い。シリコンバレーは常にある程度のスモッグに覆われていて、それほど自分で感じるほどの空気の汚染はないものの、山からシリコンバレー側へ降りてくる度にそれを見ていたから「自分はあのスモッグの中に住んでいるんだ」と想像する事は容易である。

現在のところ、寝室、書斎、風呂場、リビング、キッチンなどは機能するようになって、自炊も始めたがまだまだ整理、整頓、処分するものは多く残っている。引っ越しした日も、その後でも感じた事なのだが、長い旅に出る前、その旅から戻った時、前の家を売って引き払った時にかなりの物を処分した事が、今非常に役に立っている。というか、その効果を感じる。つまり持ち物が少なくなって管理するのが容易になったのである。それでもサンタクルーズでシンプルでミニマルな生活を一年以上した後に見渡してみると「今必要ないもの」がいかに多いことか。今後またガンガン処分して行きたいと思っている。

1.06.2010

移転のお知らせ

お知らせです。

この度、馴染んで住んだサンタクルーズを離れ、再びシリコンバレーへ移ることになりました。

サンタクルーズは住む環境としては明らかにサンフランシスコよりも、シリコンバレーよりも良い場所です。海と山があり、水も空気も新鮮、街の大きさも人口も程よく、全体的にゆったりしています。が、シリコンバレーへの通勤は僕にとって時間的にも交通状況もストレスが大きく、以前から考えていた住む場所を決めるとなるとやはりシリコンバレーの方が効率が良いため、そちらの方に決めたのです。

引っ越し先はシリコンバレーの中心都市、サンノゼ市内のウィロー・グレン(Willow Glen)という一帯です。住宅地として定着している町で、小振りではあるけれどメンテが行き届いた可愛い家が多く、3ブロックほどのこじんまりした商店街がその一帯の中心となっています。職場の同僚や友達によれば、ウィロー・グレンは「良いご近所さん」という評判ですので、チョイスとしては良かったのだと思っています。以前住んでいたサニーベールからもそう遠くはない場所です。車で10分行くとサンノゼの日本町(ジャパンタウン)もあります。オフィスまでは約15分から20分。メジャーなハイウェーを使うため、渋滞もあるでしょうがサンタクルーズからの通勤路にある17号線の山越えをしなくていいのでストレスはかからないと思っています。

新居はいわゆる「タウンハウス」という型のもので、両隣に住人はいるけれど上下階には居ないフォーマットです。つまり、一つの建物(この場合は三階建て)を縦割りに切ったようなもの。一階は車が縦に二台入るガレージと玄関、二階はリビング、ダイニング、キッチン、ベッドルームひとつ、バスルームひとつ、三階はベッドルームがふたつあってそれぞれにバスルームが付いている、という構造です。階段の上り下がりを頻繁にする感じですが、アメリカでは普段全くと言って良いほど使わない脚を使うのだから良い事でしょう。先日冷蔵庫を入れましたが、男四人で16段の階段をようやく押し上げたという感じで、家具の出し入れには苦労しそうです。

今週末1月9日(土)にサンタクルーズのコッテージを引き払い、コッテージにある最小限の物を移して入居。翌週末1月16日(土)は別居以来倉庫に入れてあったものを全て出して新居に移し、それで引っ越しは完了する予定です。

今の時点で一番心配なのは猫のウィローです。新しい場所に馴染んでくれると良いのですが。サンタクルーズのように木々に囲まれた環境から住宅街へ移るのですからウィローにとって少なくとも移転当初はストレスになるでしょう。病気などせず、すんなり慣れてくれるとありがたい。

新居の住所をお望みの方はメールでお知らせ下さい。

このブログは「コッテージ・ライフ」と名付けましたが、その題名も変えなければならないでしょう。

今後もよろしくお願いします。

1.05.2010

Furthur

2008年の年末はどこへも出かけず、一人で過ごした。だから2009年の年末はどこかへ出かけて楽しく過ごしたかった。しかし、「Furthur」のショーが発表された時も特に関心は持てず、地元サンタクルーズで年明けを迎えたいと思っていたのだけれど、何も面白そうなものはない。さてどうしようかと考えていたら、12月30日のFurthurのチケットが余っているから行かないか、と大家さんが誘ってきた。ショー自体には余り期待は無かったが、彼女がサンフランシスコまで運転してくれるようだし、シアトルやポートランド、コロラドなどから来ている多くの友達と会場で会えそうだったので行くことにした。

これが大当たり〜!

1995年にジェリー・ガルシアが亡くなってからグレイトフル・デッドのメンバーたちが一緒に、あるいはそれぞれに多くのミュージシャンたちとコラボしてきたのだが、僕はその度にがっかりし、失望し、そして遂には諦めた。もはやグレイトフル・デッドの曲は演奏しても実際にはグレイトフル・デッドの音楽ではなかった、とも感じたりしていた。だから元デッドのメンバーたちによるショーよりも質の高いカバーバンド、例えばダーク・スター・オーケストラ(DSO)、を観に行った方が楽しかったのだ。

12月30日のショーはそんな僕の印象を一時的なりとも払拭してしまった。楽しくてずぅ〜〜〜っと踊っていたし、耳と感覚が音の方へと引っ張られていた。こんなことは久しぶりだ。ジェリーがいない「デッド」のこれまでのショーと比べて一体何がどう違うのか?そんなことはどうでもいいし、第一僕には分からない。ただ、今回のFurthurのメンバーが醸し出す音と雰囲気が、ジェリーがいたグレイトフル・デッドのそれに非常に近いと感じたことは確かだ。

30日のショーが楽しかったものだから、ショーが終わった会場内で友達数人に大晦日のショーのチケットが余っているかどうか尋ねてみたら数枚あることが分かった。その場で一枚譲ってもらった。

31日のショーも前夜と同じように楽しく、多くの友達と一緒に楽しめた。ということは、僕にとっては30日のショーだけが際立って良かったというのは当てはまらず、このバンドの今のメンバー構成が良いのだ、ということになる。

この展開は自分にとっては全く予想外のもので、最近の僕の音楽トレンドを知っている人たちも、僕が二夜連続でデッド関連のショーに行ったことについてとても驚いていた。

2010年、このメンバーで夏あたりに北カリでショーをやるのなら多分行くと思う。バークレーのグリークシアターなんかいいなぁ。

1.01.2010

謹賀新年2010

皆様、

明けましておめでとうございます。

旧年中は多くの方にお世話になり、サポートしていただき、あるいは一緒に遊んでいただきました。個人的には非常にハードな時期でもありました。と同時に自分の状況をよく考え、次のステップを歩み始めた回復と再出発の機会ともなりました。

今年も皆様のご健康と幸せをお祈りいたします。また、皆さんとお会いして楽しい時間が過ごせる事を願っています。

本年もどうぞよろしくお願いします。

さて、早速新年の1月から僕の生活に大きな変化があります。旧年中の12月初旬にタウンハウスを買い、こちらの年末休日の間を縫って準備をしてきましたが、今月半ばにサンタクルーズから新居があるシリコンバレー側のサンホゼ(またはサンノゼ)に移り事になりました。

サンタクルーズは海と山に囲まれ、空気も水も新鮮で、程よくこじんまりしていて、住民も一般にユニークで政治的にも革新的な考えを持っている人たちです。サンタクルーズと職場の間には悪名高い「17号線」で山を越えなければなりませんが、バスでも自分の運転でもこの通勤がかなりのストレスになりました。今回の引っ越しは「住む環境」よりも「効率」を選んだものだと言っていいでしょう。

新居からは通勤が短くなる事はもちろん、サンフランシスコやサンタクルーズの中間点なので平日の夜でも行ける距離です。ちょうど前の家の所在地と同じような感じ、と言えばあのサニーベールの家をご存知の方はお分かりになるかもしれません。

新居自体の様子については追ってお知らせする機会もあるでしょう。

だけど・・・「コッテージ・ライフ」ではなくなってしまう。このブログの題名はどうしようか???


2010年、元旦吉日