8.02.2010

選択肢の問題


熱中症で搬送されたり亡くなってしまう人たちが続出している日本。そんな天候の中で未だにスーツとネクタイで働かなければならないリーマンたち。スーツ+ネクタイ姿は武士の二本差しに相当するのだろうか?僕に言わせればあの暑さの中でさえ企業や雇い主が社員にそんな服装を強いる事自体狂気沙汰なのだが…

さて、そんな職場環境でリーマン侍たちには「選択の余地」はあるのだろうか?

この疑問を巡って義父と議論した。彼は日本ではそんな選択の余地はないと言う。僕にしてみれば規則で固められた日本の社会でも選択肢はあると考えている。そもそも、そのような職場環境を善かれと思って選んだのは本人なのだ。幼少時代から「進路、進路」と急き立てられて成長した結果である。あるいは、自己の向き、不向きを意識外に放り出して「有利な進路」だだけを優先してきた結果である。どんなに頭脳が優秀でも不向きな仕事をしていたら誰でも落ち込むしストレスも貯まるというのに。

客相手の企業職、主に営業の人たちは「お客さんと会わなければならないから」スーツ+ネクタイなのだろう。客の方が前もって営業目的で来社する取引先のスタッフに「この暑さですから服装はご自由に」と伝える事さえも期待できない社会なのだろうか?

自己の生活環境を自分でクリエイトすれば良い。そんな仕事が嫌だったら辞めれば良い。それが無理なら日本を出れば良い。もっとも、そこまで情熱と優先性を持って日本の夏の仕事着対策を考える人は少ないだろうけれど。

もっとも、この意見の対象となるのはクビにならないことを前提としている正社員に限定される。リストラされた多くの人たちにとって、そのような選択肢が無いという切羽詰まった状況は理解しているつもりだ。

あるいは、こんな意見は日本の社会を全く知らない僕の戯れ言にしか過ぎないのだろうか?

外から見た日本の社会は、今や常識破れの考え方を導入しない限り現状を打破出来ないところまで来ているように思うのだけれど、日本では「常識」の認識とそれへの執着が当然とされ個人にも要求されるから何も新しい動きは出てこない。

アメリカでは1960年代に「Tune In, Drop Out」という言葉が出てきた。自分の感性や考えに訴えるものにtune in(注目、賛同)し、それに合わない既成のシステムからドロップアウトせよ、という意味で僕はとらえているのだが、50年後の今、日本ではぴったりのメッセージではないだろうか?少なくとも先進国と呼ばれる国々の社会では、個人レベルでそれが可能になっている。

もっとも、かく言う僕自身もアメリカではただのリーマンのおっさんである。が、暑い日は短パン、軽いシャツ、草履で出社する。心地いい服装の方が仕事に打ち込み易く、効率も高い。会社側もそれを良く理解してくれている。