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7.14.2014

サンフランシスコベイエリア不動産事情2014

 2012年以来、サブプライムローン崩壊後のアメリカ不動産市場は失われた地盤を回復させた。’14年半ばの現在、サンフランシスコベイエリアはまたもや不動産バブルの真っ最中と言って良い。

 こちらで市場のトレンドを探る上で基本となるのはSingle Family Home、つまり一家庭が住むための単独家屋である。自分が住むカマボコ形式の家屋、タウンハウスやマンション/コンドミニアムは、ニューヨークシティーなど大都市内の特別な環境の他は重要視されないのが普通だ。今までもサンフランシスコ市内の一軒家は「一軒一億円」の定番レートを下らないどころか一軒屋は一億円では全く足りなくなってきている。パロアルト、マウンテンヴューなどサンフランシスコ湾の南側一帯、シリコンバレーでも一軒一億円は普通だ。

 サブプライムローン問題は手軽に、簡単にローンを組む事が出来るよう細工された事が制度の弱点となったため、現在のローン受付の審査は厳しいものとなっている。買値の40%以上が頭金として必要となる。これはさすがにバブルではないか、と感じるのはそのような高価な不動産物件をローンを必要としないキャッシュ買いで片付けてしまうバイヤーが多いと聞く事頻繁だからだ。つまり一億の家をそのまま一億払って自分の持ち物にしてしまう人が増えているのだ。

 どんな人がそんな家をそんな買い方で買っているのか?普通の人、普通の家族である。その背景にはシリコンバレーがある。単純に一億円の家をキャッシュで買える人たちの数が多いのである。膨大な資本、株マネー、ベンチャー投資などが循環するという土地柄である事、シリコンバレーでは共稼ぎでしかも夫婦二人ともそこそこの年棒を貰っている家庭が非常に多い事、さらに昨今のシリコンバレーの景気自体が上向きである事、中国バブル崩壊避難対策のため中国の新興富裕層によって注入される保身的投資が大きい事などが挙げられる。

 このようなサンフランシスコ周辺の不動産の高騰も、アメリカでもっとも高いと言われるニューヨークシティーには及ばず、現在もアメリカで2番目に高い地域である事に変化は無い。しかし賃貸物件市場となると、どうやらサンフランシスコ市はニューヨークシティーを凌ぐアメリカでもっとも高い街となったようだ。

 ではサンフランシスコ市内のアパートはどれほどの家賃で住めるのか?現在、敷地内/屋内では洗濯も出来ず、洗濯物をバッグに詰めて最寄りのコインランドリーへ行かなければならず、自分の車を常に駐車出来る指定駐車場が無いため毎日違った場所で路上駐車を強いられるような1LDKのアパートで3500ドル、約35万円だと言われている。部屋の中や敷地内での洗濯や駐車場が無い上、所在地の周辺の治安が良いとは必ずしも言えないような環境である。FacebookやTwitterなどの本社があり、ベンチャー企業も急増中で、大手企業も大勢のスタッフを擁するオフィスを構えるトレンドが高まっている今のサンフランシスコでは、そんな条件でも空き部屋が出ると入居希望者が大勢殺到する。

 先日、アパートを探している友人から聞いた話によると、他の入居希望者たちを抑えて大家の承認を得るため、向こう一年間の家賃をその場で小切手を切って払うから住まわせろという威丈高な態度で入居を決める若い世代も多い。そのレートで一年分の家賃というと約400万円相当である。それを小切手一枚で片付けるというのも豪気な話だ。

 自分の家のローンは毎月約8万円である。月35万円の家賃など払えるわけが無い。そういう見方をすればサンフランシスコ市内の若いプロフェッショナルたちがどれほどの給料を稼ぎ、どのようにして高額な家賃を払っているのかなど想像も理解も出来ない。

 サンフランシスコ市内での家賃高騰は、当然の事ながら市外の賃貸市場に影響を与えている。自分が住むサンノゼの家賃はサンフランシスコほどではないにしても、1LDKや2LDKが月20万円を下らないのは当然だ。そしてサンフランシスコ市内の状況が飛び火してこの周辺でも家賃の高騰が目立ってきている。

 このトレンドは明らかにバブルであり、現時点ではそれが弾ける様子はない。個人的にはこれがいつまでも続くとは思えないのだが、このバブルが弾ける兆候も可能性がある理由も見当たらない限り、少なくとも半年から1年は右上がりに継続すると見るしかない。いつものように、バブルは海面下からいきなり現れて世間を騒がせ、結局のところ多くの人々を苦しめることになるのだが、それがいつどのような形で現れるのかは素人の自分には見えていない。

1.30.2014

日本は普通じゃない

日本は清潔さやサービスの良さなどで世界的に群を抜いている。物騒な事件が起こるとは言いつつも、治安の良さでも国際的には最高レベルだと言える。サービスの質の高さと平行して日本人の平均的な勤勉さやプロ意識も同様だ。

海外から訪れる人たちの目には良い意味で異様な光景に違いない。日本滞在中にはたと気付いて、ここまで目を配るのか、そんな事までするのか、と関心したり目を見張ったりするわけである。日本人にとってこれらのことは当たり前であって特別な事でも何でもなく、それを有り難く思う感覚も麻痺していると思われる。

そんな日本人がその有り難さを痛感するのは海外へ出かける時だろう。下手をすれば外資系の航空会社の飛行機に乗り込んだ瞬間からそれを思い知らされる羽目になる。日本の外に出た人で、しかも何らかの体験をしないと日本の特殊性には気付かない。



一ヶ月間ウォッシュレット無しで生活して日本に戻って来る事を想像してみれば良い。僕は日本滞在からカリフォルニアに戻って僅か数日後にはケツが痛くなる。このケツの痛さは国内でウォッシュレット完備をほぼ実現した日本の外ではごく普通の現象であると想像せざるを得ない。

清潔、質の高いサービス、細かい気遣いなどのレベルの高さを「世界で日本だけで他の国には無いもの」と初めて認識するのだ。角度を変えた言い方をすれば、日本の外でこうした日本の良さを要求したり期待するのは文字通り場所違いなのだ。

例えば、日本のサラリーマンが出張でフランスへ行く。フランスでは昼食にも時間をかけ、昼間からワインも飲む。その勤勉な日本人サラリーマンは帰国してから同僚にこんな風に報告する。

「パリで先方の社員と昼飯食ったんだけどね、連中ったら昼間っからワイン飲みやがってさ、あれじゃ仕事になんねぇよ。フランス人って怠け者なんだな。プロジェクトの話が進まなくてさ〜。」

勤勉さが国民性の一部である日本人にしてみればそういう見方もあるだろう。別の見方をすればこうなる。

「パリで先方の社員と昼飯食ったんだけどね、連中ったら昼間っからワイン飲んでるわけ。さすがにヨーロッパってところは日本と違ってゆったりとしているというか、人生楽しんで生きているよね。日本人みたいにあくせくしてないんだよなぁ。」



海外の工場で現地社員に日本でやっているのと同じ部品の作り方を指導して、教え込むことは出来る。が、彼らの生活様式や国民性を日本人化することは出来ない。その逆もまたしかり。日本のサラリーマンがEU圏で法律によって保証されている毎年5〜6週間の休暇を得ることが出来ても、日本人の国民性ではその時間をどのように自分を楽しませリラックス/リフレッシュさせるために使って良いのかも分からないだろう。普段スーツ&ネクタイ姿で蟻のように働くサラリーマンの自殺件数が上昇するだけだ。

その一方で清潔さやサービスの質の高さで与える好感度を「輸出」する事は可能だと考えている。中国などはその典型的な輸出先であろう。もっとも、マネとコピーしか出来ない中国人の事だから全部自分たちだけのアイディアでやったのだと言い張るに違いないのだが。

1.21.2012

「温度差」

前回のブログで東北大震災や福島原発事故、放射能汚染などの「温度差」について考えてみる、と書いた。それ以来あれこれ考えてみた。その都度頭の中に浮かんだ事を書いてみようとも思ったが、実際には書かなかった。しばらくしてある程冷静になってツイッターで入ってくる情報や自分の考えの整理をしてみたら、僕が感じている「温度差」というものの本質が見えてきたような気がする。

生半可な考えをブログに垂れ流さなくて良かった、と思う。

僕の所在地はアメリカだ。従っていろんなことが起こっている日本は離れた所から見ていることになる。太平洋を隔てた北アメリカ大陸から日本を見た場合、物理的な距離感を感じるのは当然だ。実際、僕は311以前も以降も幸いな事に大した地震は体験していない。東北や関東に住む人々のように実際に大きな揺れを感じ、恐怖を感じ、今口にしている食べ物が放射能に汚染されているのではないかと疑う気持ちなどは体験していない訳だから、それに関してはどうこう言える立場ではないだろう。

そう言った温度差がある事は間違いない。が、今の社会ではもう一つの「温度差」がある。それ’はどうやら僕が日本国内に居らず、対岸の火事的に日本を見ていることがその原因ではない。ではなにがその根底にあるのか?それは情報源だと考えている。

3・11以来ネットで多くの人達が言っているのは、(1)どの情報源を正しい情報が発信される場所として選ぶ能力、(2)そこから出てくる情報を基にして自分の判断や行動を決める能力、この2つの能力、才覚が必要な時代だ、という事である。正しい意見だと考える。 放射能汚染が進む日本国内でそれらの能力が生死の境目になる可能性は充分にある。

家族、友達、知人の間での会話や議論もその情報に基づいて発言することになる。大手メディアの報道もその情報を基に判断するようになる。今の日本の現実もその情報を基に個人の頭の中で構築されるようになる。

時代は正に映画「The Matrix」の世界になった。いや、さらに正確に表現するなら、時代はようやく映画「The Matrix」のような世界観や自己認識を持つようになった、と言った方が良い。なぜなら、今までわれわれは明確にその区別をすることなく、自分が持つ情報によって現実が構築されていると考える人はごく少なかったからだ。

日本国内に住んでいる人たちには、海外に長く住んでいる日本人が日本に関する最新情報には疎いという先入観があるらしい。ネットがある世界ではもはやその先入観は化石のごときものだと考えて良いだろう。そして、日本国内に居る、居ないとでは体感するレベルも異なるだろう。しかし、情報を基にして現実や意見が作られるなら、物理的な所在地が持つ影響力は減少すると考えざるを得ない。

今後そのネットに潜むエネルギーが日本という社会にどこまで影響を与え得るのだろうか?

2.06.2011

スーパーボウルの週末

今日はスーパーボウルが行われる。一般にはどのチームが勝ち抜いて出場権を得るのか、ハーフタイムのエンターテイメントは誰が務めるか、ハーフタイムのコマーシャルは誰が出すのか、などの話題で盛り上がるようだ。

僕は今日になっても未だにどのチームが出るのかも知らないし、全く関心がない。アメフトはフットボールではなく、戦争好きなアメリカ人の戦場シミュレーションゲームだと考えている。

今日のシリコンバレーは快晴、南風、気温24℃。カメラを手に散歩に出て満開に近い桜や梅の花を見ながら歩き回り、カフェで休憩中。こんな素晴らしい天気の日曜日に家の中でじっとあんなものをTVで見る気は全くしない。もっとも、アメリカの他の地域は寒波に襲われているようだからそんな場所では外に出る方が無謀とも言える。

スーパーボウルの日には多くの人が自宅に友達を呼び、パーティーを開く。問題は試合後の交通事情である。この日はアメリカの一年の中でも飲酒運転が最悪の日で、夕方以後の事故数がやたら多い。我々のように関心が全くない人たちにとっては大きな迷惑だ。今日も午後早いうちに買い物を済ませてしまい、運転する必要が無い状況を整えた。

一方では今日で戦争シミュレーションゲームのシーズンが終わるのでちょっと平和な心持ちになる、という特典もある日だ。僕にとってはちょっと変な一日である。

12.06.2010

レトロ・ジャパン


今月末に52歳という年齢的なものも影響しているのか、最近レトロな日本に目が行ったり、関心を呼び起こされたりすることが増えた。昭和33年生まれだからか、時代設定がその頃の映画などに出会うと、自分が生まれた頃には日本はどんな様子だったのかなどが気になったりする。例えば「ALWAYS:三丁目の夕日」では昭和33年に当時まだ建設中の東京タワーのCGなんかが画面に出ると、「おお〜」と一人で感心してしまったり、「オリオン座からの招待状」ではその頃の京都のCGを観ただけで感激したり、なのだ。

カラーテレビが登場した頃の事もかなり鮮明な記憶がある。まだ幼稚園に居た頃、東京オリンピックに向けて聖火ランナーが平安神宮と京都会館の前を走ったのを見た記憶も。

自分が生まれた当時の様子を再現した映画のシーンで見る限り、あの頃はまだ子供はもちろん大人達にも「イノセンス」、つまり無垢で純情なところが十分あったのだと思う。そんな考えが次々と浮かんで来ると、最近つまり日本のバブル崩壊後に生まれた世代が、自分たちが生まれた頃の日本を振り返るようになったら、一体どのように感じるのだろうか?とも考えたりする。

「あの頃は良かった」という考えばかりには固執したくない。今僕が置かれている状況は911同時テロ後のアメリカだし、日本へ行ってもバブル崩壊後の日本はまた続いている。何も元には戻らないから。とすれば、前を向くしか無い。

11.07.2010

早くも



車で10分も行かないところに、有名ブランドがずらりと並ぶ「サンタナ・ロー」というショッピングセンターと、大きなショッピングモールが隣通しに並ぶ一角がある。そこへ行くハイウエーの出口がこの週末からいきなり渋滞し始めた。クリスマスショッピングのシーズンが始まった。

ハロウィーンが過ぎたと思いきやリテールの店頭は早くもクリスマス商戦に向けて模様替えしている。僕がアメリカに渡った70年代、そしてその後20年ほどは、商店がクリスマスショッピングに備えてデコレーションを始めたのは11月末のサンクスギビング(感謝祭)の週末が明けてからだった。90年代になると、ハロウィーンが終わったらテレビでクリスマスモードのコマーシャルが出始め、近年に至ってはクリスマスのデコを見始めるのが異常に早くなり、大きなショッピングモールでは9月にはハロウィーン、サンクスギビング、クリスマスのデコが全部出てしまっているところさえある。つまりお化け、カボチャと紅葉と七面鳥、クリスマスツリーが同時に飾られるのである。

大手多国籍企業から個人経営の商店に至るまで、クリスマス商戦は死活問題であり、年に最も売り上げが高くあるべき時期となった。この時期に売り上げが芳しくなければ企業や商店は確実に潰れる。クリスマス、年末を含む四半期決算でその判定が下る。

アメリカの消費者はこの30年間で確実に年末消費パターンを変えられてしまった。洗脳されたと言っても良い。

日本のクリスマスも企業や商店の書き入れ時だろう。宗教的には無信仰に近い文化だから、物質が先行するのはやむを得ない。独身者がロマンチックなクリスマスイブを一緒に過ごす相手を探すのにやきもきしたり、彼/彼女のプレゼントを選んだり、カップルがホテルとレストランの予約に奔走したりする。テレビの連ドラでは必ずと言って良いほど「クリスマスのミラクル!」っぽい過剰演出のクライマックスがある。ライトアップスポットは即デートスポットやおばちゃんの集団がドカドカワイワイ出かける場所になる。バカバカしいと言ってしまえばそれだけだが、ある意味微笑ましくもあり、可愛くもある。日本化したクリスマスには宗教絡みの「嘘」が無い。キリストの誕生日もクソもなく、楽しく、出来ればロマンスに恵まれ、色鮮やかに楽しい季節。それで良いと思う。

アメリカというこの消費大国では、クリスマスは一年で最も無駄で最もエゲツナイ消費が行われる時期、それだけだ。が、キリスト教信者の数が多いためか、一応キリストの誕生日という、今では後付けとさえ思えるような名目上のカモフラージュを装う。

ガソリンの燃費が最悪のでっかい車を飛ばしてショッピングモール、ショッピングセンターを走り回り、入り口に最も近い駐車スポットをめぐってテンションを上げて競争したり言い合いになったり。モールの中では貯金があろうが無かろうがクレジットカードに全てをゆだね、クリスマス用に吊上げられた高めの値段でそれほど必要でもないものを買いまくる。その反面教会の礼拝にはちゃんと出て「クリスマスは感謝の季節。恵まれぬ貧しい人にも幸あるように」などと真顔で祈っている。恵まれない人たちにはこれっぽっちも恵む事がないか、税金の控除の対象になるという理由も手伝って適当に寄付するくらいだろうか。きれいごとはともかく、「クリスマス・キャロル」のスクルージのような連中がほとんどである。普段は性格がいい人でもクリスマスショッピングになるとストレスが貯まるのか、嫌な面を露呈することさえある。

僕に言わせてみれば「嘘だらけ」なのだ。クリスマスだから買い物しまくって、美味いもん食いまくって、彼/彼女とロマンチックに過ごして、子供が欲しいというものを買ってやって、ついでに自分が一番欲しいものもチャッカリ買って、友達や同僚とホリデーパーティーで飲んで騒いで・・・だけの方がむしろ賛同出来る。

一度で良いから日本で奇麗な女性と「ロマンチックなクリスマスイブ」なるものを過ごしてみたいものだ。

8.02.2010

選択肢の問題


熱中症で搬送されたり亡くなってしまう人たちが続出している日本。そんな天候の中で未だにスーツとネクタイで働かなければならないリーマンたち。スーツ+ネクタイ姿は武士の二本差しに相当するのだろうか?僕に言わせればあの暑さの中でさえ企業や雇い主が社員にそんな服装を強いる事自体狂気沙汰なのだが…

さて、そんな職場環境でリーマン侍たちには「選択の余地」はあるのだろうか?

この疑問を巡って義父と議論した。彼は日本ではそんな選択の余地はないと言う。僕にしてみれば規則で固められた日本の社会でも選択肢はあると考えている。そもそも、そのような職場環境を善かれと思って選んだのは本人なのだ。幼少時代から「進路、進路」と急き立てられて成長した結果である。あるいは、自己の向き、不向きを意識外に放り出して「有利な進路」だだけを優先してきた結果である。どんなに頭脳が優秀でも不向きな仕事をしていたら誰でも落ち込むしストレスも貯まるというのに。

客相手の企業職、主に営業の人たちは「お客さんと会わなければならないから」スーツ+ネクタイなのだろう。客の方が前もって営業目的で来社する取引先のスタッフに「この暑さですから服装はご自由に」と伝える事さえも期待できない社会なのだろうか?

自己の生活環境を自分でクリエイトすれば良い。そんな仕事が嫌だったら辞めれば良い。それが無理なら日本を出れば良い。もっとも、そこまで情熱と優先性を持って日本の夏の仕事着対策を考える人は少ないだろうけれど。

もっとも、この意見の対象となるのはクビにならないことを前提としている正社員に限定される。リストラされた多くの人たちにとって、そのような選択肢が無いという切羽詰まった状況は理解しているつもりだ。

あるいは、こんな意見は日本の社会を全く知らない僕の戯れ言にしか過ぎないのだろうか?

外から見た日本の社会は、今や常識破れの考え方を導入しない限り現状を打破出来ないところまで来ているように思うのだけれど、日本では「常識」の認識とそれへの執着が当然とされ個人にも要求されるから何も新しい動きは出てこない。

アメリカでは1960年代に「Tune In, Drop Out」という言葉が出てきた。自分の感性や考えに訴えるものにtune in(注目、賛同)し、それに合わない既成のシステムからドロップアウトせよ、という意味で僕はとらえているのだが、50年後の今、日本ではぴったりのメッセージではないだろうか?少なくとも先進国と呼ばれる国々の社会では、個人レベルでそれが可能になっている。

もっとも、かく言う僕自身もアメリカではただのリーマンのおっさんである。が、暑い日は短パン、軽いシャツ、草履で出社する。心地いい服装の方が仕事に打ち込み易く、効率も高い。会社側もそれを良く理解してくれている。