2.02.2014

東北2

松島からバスと電車を乗り継いで石巻へ。石巻駅を出て直ぐ駅前で待機中のタクシーに乗る。

「アメリカで住んでいる者ですが、これから3時間貸し切りでお願いします。運転手さんが石巻でこれだけは見て欲しい、知って欲しい、と思う所へ連れて行って下さい。お任せします。」僕は関西弁で運転手に告げた。

僕のような観光客(正確には「ネガティブ観光客」と言うべきなのだろう)は案外多いらしく、連れて行ってもらった各所で運転手は助手席に用意していた「Before & After写真」つまり震災前と震災後の航空画像を見せてくれた。

落ちた橋、先生と生徒が流された小学校、先生と生徒は流されずに済んだものの校舎が流されてしまった中学校、建物が流されて基礎のコンクリートだけが残っている土地、木の高い枝に未だに引っかかっているシャツ、目新しい魚卸市場や漁業組合の建物以外は何も無い漁港…巨大地震と津波の爪痕は2年半経った2013年11月末でも癒える事無く残っている。



石巻では、震災後に電気が回復するのに3ヶ月、水道は4ヶ月かかったと言う。町とその周囲の地域全体が平均約1メートル50センチ陥没しているため、以前は何でもなかった少々の潮の上昇でも町中で冠水する部分があり、タクシーの運転手達は頻発する通行止めに悩まされる。

国や県のお役所仕事が遅々として進まない事も確かにあるらしいが、現地の人々の話では被害を受けた土地の地主それぞれがその土地をどうするのかを決めなければならないという点が再建を遅らせる最大の原因ではないか、という事だった。陥没している土地にそのまま再建するのは躊躇われる。同じ土地に再建する場合、先ず残っている基礎のコンクリートを剥がし、整地を行い、少なくとも150cmの盛り土を乗せ、再度整地をしてから新たな基礎を築かなければならない。同じ土地に戻り家を再建して住むか、或いは高台へ移るか。各地主は決断を迫られる。

丘の中腹にある病院の駐車場から石巻漁港を見下ろす。眼下には4階建てのビルが非常階段を水平に備え、屋上をこちらに向けて転がっている。震災直後、カリフォルニアでネットニュースやYouTubeにへばりついていた時に観た映像が記憶の中で呼び起こされた。津波警報が鳴り響く中、小型のボート数隻の水位が徐々に上がりだし、そしてついに津波が到達。そうだ、あれは漁港の対岸に停泊していたあの場所だった…



「お客さんが今立っておられるこの駐車場の車も全部流された。この病院の一階の天井まで水位が上がったんです。」

「えっ?ここまで?」

想像を絶する水位の高さだった。

「やはり自分の目で見ないと分からない事や実感出来ない事がたくさんあるものだ…」

石巻から仙台へ向かう急行バスの最終便の中でこの一日見た事、聞いた事を思い浮かべながら改めてそう思った。