2.22.2014

アメリカの携帯キャリアー事情

昨年11月末から今年1月初旬まで日本に滞在し、それまで行った事がなかった日本国内の様々な場所へ旅が叶った。東北、信越、北陸などだ。毎年少なくとも一度は帰省するが、行き先は大抵東京、大阪、そして実家の京都と都市圏ばかり。

この度は東北一の都市、仙台にも立ち寄ったが田舎にも行けたのが収穫だった。1両か2両だけの在来線が走る風景は身を切るような北国の風の中でも絵になる。

一関から気仙沼へ向かう大船渡線に乗っていてふと思ったことがあった。

 日本ではこんな山の中でも携帯電波が落ちない。

日本国内でiPhone5を買って帰省滞在中にはそれを使っている。キャリアーはソフトバンクだ。ほんの暫く前までは「つながり難い」とか「直ぐ切れる」などと言われていたソフトバンクだが、気がつくと「もっともつながり易いキャリアーになりました」というCMが流れている。もっとも、docomoもauもそれ程変わりないユーザ体験であろうと想像する。しかも日本の携帯のネットワークはやたら速いと感じる。

アメリカに住んでいると、通常の使用体験として携帯電波が切れないというのは驚くべき事だ、と僕は思う。例えば、2012年の10月に訪問したアメリカ南部のテネシー州。もともとあまり何もない南部の田舎でアパラチアン山脈の麓の地域だが、自分にとっては母校の大学がある想い出の土地である。20数年ぶりに訪れただけあって土地勘も薄れ、ハイウエイや町中の道も変わってしまっていてナビが必要な事が多かった。グーグルマップで確認しながらレンタカーを走らせたが、切れる切れる、携帯電波がブチブチとあちこちで切れるため、現在位置が分からなくなる事が大変多かった。

こういう状況をアメリカ人に話すと、「ま、田舎だからね」という返事しか戻って来ない。日本の携帯市場で「田舎だから」という言い訳はすでに通用しないであろう。が、アメリカでは予期すべき現象なのだ。技術力もイノベーションも世界一だとか言いながら、この状況なのである。

携帯電波は拓けた町中、例えばシリコンバレーのど真ん中でも切れる。切れない時も、4G/LTEでも3Gでもないさらにその原始系であるEDGEというプロトコルが時々顔を出す。Apple社の本社ビルの北側に280号線というハイウエイが走っているが、そのさらに北側、つまりApple本社ビルから280号線を挟んで反対側の交差点で4G/LTEおよび3Gが入らず、EDGEしか入らない箇所があった。Apple本社ビルから歩いて5分ほどの地点である。2013年の事だ。それにはさすがに腹が立ったが、暫くしてやっと改善されたようである。

ネットワークの速度はシリコンバレーでも日本に比べて明らかに遅い。とは言っても大半のアメリカ人はソファでテレビを観て世界を知っているような顔をしていても実際には臆病この上なく、アメリカの外へ旅をする人の数が圧倒的に少ないため、国外での携帯ネットワークが自国のそれよりも格段と速いという事実さえ知らず、体験した事など無い連中が大半なのだ。そんな連中にいくら「アメリカの携帯ネットワークは遅い」と伝えようとしても理解してはくれない。

ではコスト的にはどうか。日本に比べて携帯ネットワークは遅く、しかも至る所でブチブチと切れるサービスであるにもかかわらず、アメリカのスマホ携帯使用コストはやたら高い。独身でファミリープランとは縁がない状況で、毎月100ドル以上の請求が来る。しかも毎月のデータ量は制限されており、それ以上使うと追加料金を取られる。コストは日本の約2倍と考えて良いかもしれない。

アメリカから見ると、日本の携帯サービスはそのデマンドに対応してか、或いは日本独特のサービス精神の反映か、至れり尽くせりと言って良いレベルである。逆、日本から見た印象に反して(?)アメリカの携帯サービス全般のレベルが低すぎるとも言える。

そもそも、アメリカの携帯キャリアー市場ナンバー1と2であるヴェライゾン(Verizon)とAT&Tが需要と国土の広大さを言い訳に持ち出して積極的な投資をしてインフラの拡充やサービスの向上に関しては呆れる程怠慢だ。アメリカ南部の超保守的な白人肥満オヤジたちが葉巻をくゆらせながらやっているビジネスである。今後の向上はあまり期待出来ない。

孫正義氏がアメリカの携帯キャリアーを買収して本腰で全体的な改善を目指しているようだが、彼が全力を挙げて市場のレベルを上げて行けば、少しは日本のレベルに近づくのだろうか。


2.13.2014

右傾国策と少子化

アメリカは軍国資本主義である。中国でも共産主義などと言ってはいるがアメリカとほぼ同じ軍国資本主義の様相を呈している。(もっとも中国の場合は、元来お決まりの伝統的歴史的文化しか文化らしきものは無く、文化大革命の皮肉な反動として金儲けと消費と権力しか関心と能力が無い連中が大半を占めているのが現状で、おざなりにもご立派な資本主義とは呼べないのだが。)両者ともハンパ無い数の兵士を持つ事は共通しているが、その背景は似通ってはいるものの若干様子が違う。

中国の場合、有事の際に消耗可能な男子が有り余っている。貧困に喘ぐ地方の、教育も受けていない若者に食事と住処とちっぽけな給料を「軍隊に入れば…」と吹き込んで抱き込めばそれだけで兵力を増強出来る。年に20万件以上と言われるデモや暴動で中央当局に捕まり果てしない拷問を受けるよりは兵士になった方がマシだというわけだ。

一方アメリカでは911同時多発テロ前後のアメリカ経済の悪化および後退、製造業職種のオフショア化による就職難によって仕事にあぶれる若者が急激に増加した事を背景として、軍が若者を勧誘する際に「大学の学費負担」を退役後の条件として掲げているため、それに釣られた下層階級の多くの若者が兵士となる。特に昨今の大学学費の異常な高騰は下層階級のみならず中流階級家庭にも経済的プレッシャーがかかっている。(自分は下層階級の若者が従軍するのは米国政府や官庁がある程度そのような作為を持って組織的にそう仕向けていると考えている。)さらに911同時多発テロ勃発後はアメリカ独特の愛国心を以て自らの意思で従軍する血気盛んな若者も大変多かった。

また、アメリカの税制下では以下のようになっている:

1.結婚すると一人当たりの所得税は独身者よりも税率が高くなる。

2.結婚して高くなった税率を減少させる方法は二つある。一つは子供を作る事。もう一つは住宅ローンを組んで(平たく言えば借金をして)家を買えば、ローン支払いのうち利子分が所得税申告の際控除対象となる。

つまり「アメリカンドリーム」を実現したかったら先ず結婚し、子供を作り、家を買い、その家を消費品で一杯にしろという話だ。アメリカ社会では未だにそれが理想像とされるため、離婚率50%であろうとなかろうと将来兵士となってくれる「人材」は産まれ続けることになる。上手く出来たものだ。

因に、中国の貧困階級同様、アメリカ下層階級の若者たちの教育レベルも非常に低い。過去に製造業で繁栄した南部や中西部の市町村では今や失業率50%以上、基礎教育を全うしない若者(いわゆるドロップアウト達)が40%というコミュニティーもある。今そこにあるのは劣悪な治安と麻薬だけだ。従って、アメリカでも中国同様、一般兵士達の知性や理性レベルは非常に低いと考えて良い。日本領土にある米軍基地周辺で起こる米兵による日本国民に対する理不尽で残酷な犯罪が起こるのは下士官以下レベルの兵士の理性や知能レベルが低い事も大きな理由だと考えている。

これらの違いはあるにせよ、アメリカや中国はこのように供給を維持している膨大な兵力をバックに国際外交では偉そうな事を平気で言えるわけだ。また、各政府が国内軍備企業とベタベタの関係を保ち、兵器の増強、高技術の新兵器開発がそれに伴っている事は言うまでもない。

日中戦争と太平洋戦争でもそうだったが、そんな相手に戦争を仕掛けるのは狂気の沙汰以外の何ものでもないだろう。

しかし、どうやら現行日本政府はそう考えてはいない。

現在の数多い日本国内の問題の中に少子化というのがある。そう、少子化が問題になっている国がどのように志願者を募り、訓練し、戦線に送り込むと言うのか?という事だ。放っておけば人口が低くなるだけの今の日本が、今後さらにその人口の一部を戦争で犠牲にする覚悟があっての雑言なのだろうか?この点だけでも現行日本政府が机上の空論ならぬ妄想論を現実化しようとしている浅はかさが見て取れる。ネトウヨなどは「富国強兵」と「少子化」のジレンマさえ理解出来る知能は持っていないだろう。

日本国内から見てどうなのかは詳しく知らないが、これらの事を理解した上で国際レベルで日本の外から見ると、日本の宰相の言動などチャンチャラ可笑しくてまともに受け取れるものではない。これについては小林よしのり氏大前研一氏も別の角度からほぼ同じ結論を出されているようだ。島国根性、井の中の蛙のメンタリティー炸裂中と言ったところか。

では少子化問題はどのように解決出来るのか?大して頭の良くない自分でさえある程度の想像はつく。

 若者達が安心して結婚し、経済的にも環境面においても安心して子供を産み育てることが出来、子供は虐待や利用される事無く成長出来る国および社会を作る。

単純にただそれだけである。今後日本が太平洋戦争の苦い体験をもう一度味わいたいかのように暴走するにしても、兵士の増強はそんな場合も最低限必要事項なのだ。宰相が恥も知らずに国際社会に軽薄な口先だけの「戦術」を主張する今の日本はその真逆に向かっている。そんな宰相とその取り巻きを「圧倒的支援」を以て選出したのは日本の有権者達だ。

1994年5月に初めてヨーロッパを旅して以来、「女と子供が幸せな国は安定した良い国だ」という考えは今も変わらないが、それを現在の日本に期待するのは無理であろう。


2.09.2014

東北3

朝、仙台から新幹線で一関へ移動。一関駅の改札を一度出て、駅前で宿を探す。改札口から歩いて1分以内にビジネスホテルがあった。フロントで部屋を確保し、バックパックを置いて手荷物だけで駅へ戻る。

一関 > 気仙沼 > 陸前高田、という行程で被災地を訪れたかったのだ。

午前10時過ぎ。再び駅構内に入ると、気仙沼行きのローカル線は2分ほど前に発車してしまっていた。この路線は2時間に1本しかない。仕方なく、いったん切符を清算して駅前の喫茶店に入り、次の12時過ぎの列車を待つことになった。コーヒーとサンドイッチでブランチ。

12時数分前に再び一関駅に入り、気仙沼行きのホームに降りると、列車は既に待機していた。乗客もまばらなその列車に乗り込むと、その数分後に発車した。動き始めた列車からホームの反対側に停まっていた列車の行き先表示に「気仙沼」とあるのを見た。

ん?あれが気仙沼行き?するとこの列車は一体どこへ?

自分が乗っていたのは盛岡行きだった。旅の途上での久々の大チョンボ。



一関−盛岡間の在来線はほぼ1時間に1本。さらに一関から気仙沼への次の列車は午後2時頃。直ぐ一関へ引き返しても2時間近く待たなければならない。しばらく盛岡行きに乗り続け、程よい時間に引き返す事にした。暫し冬の東北、農閑期の農地、山と川の風景を味わう。



そして午後2時過ぎ、ようやく気仙沼行き大船渡線に乗った。日没時間を調べると、午後4時過ぎには日が沈む事が分かった。陸前高田に着く頃は真っ暗であろう。やむなく陸前高田行きは断念。震災直後、気仙沼を襲った津波の映像を数を多く観た。その印象は陸前高田と同様、強く残っている。気仙沼だけでも見たかった。

大船渡線は山谷を縫ってゆっくりと進む。杉や檜の植林がなされた山、ご先祖さまのお墓、コンビニも無い無人駅、豊かな山の自然と古い伝統やしきたりが感じられる村…

そして日が傾いて沈み始める頃、ようやく気仙沼に到着した。ミスだらけの一日だったが、全く暗くなってしまうまで少々の時間はありそうだった。


2.02.2014

東北2

松島からバスと電車を乗り継いで石巻へ。石巻駅を出て直ぐ駅前で待機中のタクシーに乗る。

「アメリカで住んでいる者ですが、これから3時間貸し切りでお願いします。運転手さんが石巻でこれだけは見て欲しい、知って欲しい、と思う所へ連れて行って下さい。お任せします。」僕は関西弁で運転手に告げた。

僕のような観光客(正確には「ネガティブ観光客」と言うべきなのだろう)は案外多いらしく、連れて行ってもらった各所で運転手は助手席に用意していた「Before & After写真」つまり震災前と震災後の航空画像を見せてくれた。

落ちた橋、先生と生徒が流された小学校、先生と生徒は流されずに済んだものの校舎が流されてしまった中学校、建物が流されて基礎のコンクリートだけが残っている土地、木の高い枝に未だに引っかかっているシャツ、目新しい魚卸市場や漁業組合の建物以外は何も無い漁港…巨大地震と津波の爪痕は2年半経った2013年11月末でも癒える事無く残っている。



石巻では、震災後に電気が回復するのに3ヶ月、水道は4ヶ月かかったと言う。町とその周囲の地域全体が平均約1メートル50センチ陥没しているため、以前は何でもなかった少々の潮の上昇でも町中で冠水する部分があり、タクシーの運転手達は頻発する通行止めに悩まされる。

国や県のお役所仕事が遅々として進まない事も確かにあるらしいが、現地の人々の話では被害を受けた土地の地主それぞれがその土地をどうするのかを決めなければならないという点が再建を遅らせる最大の原因ではないか、という事だった。陥没している土地にそのまま再建するのは躊躇われる。同じ土地に再建する場合、先ず残っている基礎のコンクリートを剥がし、整地を行い、少なくとも150cmの盛り土を乗せ、再度整地をしてから新たな基礎を築かなければならない。同じ土地に戻り家を再建して住むか、或いは高台へ移るか。各地主は決断を迫られる。

丘の中腹にある病院の駐車場から石巻漁港を見下ろす。眼下には4階建てのビルが非常階段を水平に備え、屋上をこちらに向けて転がっている。震災直後、カリフォルニアでネットニュースやYouTubeにへばりついていた時に観た映像が記憶の中で呼び起こされた。津波警報が鳴り響く中、小型のボート数隻の水位が徐々に上がりだし、そしてついに津波が到達。そうだ、あれは漁港の対岸に停泊していたあの場所だった…



「お客さんが今立っておられるこの駐車場の車も全部流された。この病院の一階の天井まで水位が上がったんです。」

「えっ?ここまで?」

想像を絶する水位の高さだった。

「やはり自分の目で見ないと分からない事や実感出来ない事がたくさんあるものだ…」

石巻から仙台へ向かう急行バスの最終便の中でこの一日見た事、聞いた事を思い浮かべながら改めてそう思った。