12.15.2010

ザ・ウォール LIVE パート2


「壁」というテーマは社会的、政治的な印象が強いけれど、「ザ・ウォール」の中では無意識に、あるいはトラウマに伴って人間が作り上げてしまう心理的な意味での壁にも言及している。鬱病やひきこもりなどのような心の病がストーリーの主人公であり、作者の分身でもある「ピンク」に壁を構築させ、四面楚歌の状況に自ら置かせている。この作品を創作していた頃の心境をロジャー・ウォーターズ自身が振り返り、「あの頃はロックンロールからはまるでかけ離れた精神状態にあった」と、このコンサートの最後でもそう言っていた。

このコンサート自体はアルバムに忠実な構成で、一部は二枚組アルバムの一枚目、休憩の後の二部は二枚目となっている。このアルバムを幾度となく繰り返し聴いてきた自分にとって、音楽面では特に目新しい部分は無かった。むしろ、ほんの一曲か二曲を例外として即興などをそれほど追加せず、アルバムのほぼ原型で演奏してくれたおかげで感激は倍増したと言っていい。


これはギターソロにも言える。デイヴィッド・ギルモアのパートをこのコンサートで演奏したのはデイヴ・キルミンスターというギタリストだった。彼はギルモアのソロを一音一音実に忠実に演奏していて、ギターソロの最高峰のひとつとも言われる「コンフォタブリー・ナム」のソロも出来上がった壁のてっぺんから見事に再現してくれたため、曲の心情が直に伝わって鳥肌ものだった。


そして最後に「壁」は崩れ去った。話には聞いていたが、発砲スチーロールで出来ているかもしれない壁ではあってもライブで実際に観ると圧巻だった。ロジャー・ウォーターズは最後の挨拶で「国々の間に立ちはだかる壁が全てこのように崩れさる日が来る事を願っています」と言った。あの素晴らしいコンサートの最後に言われるとさすがに説得力満点だ。


因みに、一緒に行ったドイツ人の友達がこのショーの部分をいくつかiPhoneで撮ってYouTubeにアップしている。他にも多くのライブ映像がアップされているので、是非チェックして下さい。

ザ・ウォール LIVE パート1


1980年、ピンク・フロイドがリリースと同時に世界を震撼させた「The Wall」を引っさげてアメリカンツアーを行った頃、僕は今日の飯にも困る貧乏学生で、あのショーは観たかったけれど断念せざるを得なかった。もっとも、コンサートのセッティングがあまりにも大規模だったため、アメリカではニューヨークとロスアンゼルスだけでしか公演されなかったのだが、それでもあれは観たかった。

あれから30年。ピンク・フロイドによる演奏ではないけれど、この作品のコンセプトを練り上げ、ほぼ全編をクリエイトしたロジャー・ウォーターズによる演奏を観る機会が遂にやって来た。しかもここサンノゼで。チケットは4月に買った。安い買い物ではなかったが、これに限っては「そういう問題じゃない」。

30年前と言えばパソコンという代物さえ世に新しく、IBMの「PC」でさえまだ市販化されていない時代である。当時から今までに起こったテクノロジーの進化と向上は、このコンサートのプロダクションにも大きな変化をもたらした。待った甲斐はあった。

最初はステージ両脇にしかなかった壁がショーの進行とともにステージの中央にまで築かれていく。出来上がっていく壁には6台の完璧に同期されたプロジェクターが様々な映像を投射している。



興味深いのは、大スクリーンと化した壁に6台の完璧にシンクロされたプロジェクターから投射される映像が戦争、貧困、格差社会、権力の横行など、現在世界中で起こっている悲劇を痛烈に批判し風刺していること。この点、いかにもロジャー・ウォーターズ、という感じだ。

「ブリング・ザ・ボーイズ・バック・ホーム」という曲では、「Bring The Boys Back Home」のレタリングが画面に現れ、観客の大声援を呼んだ。アフガニスタンとイラクへ出兵した兵士たちを帰還させろ、というメッセージは30年前にも増して現在のアメリカ人やイギリス人には直に響く言葉なのだろう。もっとも、カリフォルニアという政治的には革新系の人々が多い土壌だから、なのではあるが。


「The Wall」という題材は、様々な普遍的なテーマを内蔵した作品である。ベルリンの「壁」が崩壊した直後に多くのアーティストが参加して演奏された事も当時は非常にタイムリーだった。子供に対する悪質な教育や虐待は今でも続いているし、戦争や貧困に至っては悪化の一方をたどっている。これはそれら全てに疑問や反論を投げかけるロックミュージックの傑作と言えると思う。

12.06.2010

ブログのタイトルについて

このブログは以前「コテージライフ」だった。2010年1月、サンノゼに引っ越した後に「アメリカ中流長屋の生活」にタイトルを変えたのだった。日本の皆さんの中には「中流長屋」って何だ?と思われる方も多いだろう。

サンノゼ市内のウィロー・グレンというご近所にある通称「タウンハウス」と呼ばれる分譲住宅に住んでいて、「長屋」というのはその建物の形容名称と考えて頂ければ良いと思う。タウンハウスは一戸建てではない。日本でマンション、アメリカではコンドミニアムと呼ばれるビルの中の住居でもない。隣接する住居と両側の壁を共有してはいるけれど、横に長い建物をカマボコのように縦割りにして、地階からその上までが一世帯の住居であるもの、ということだ。

日本語ではどのような呼び方をするのかが分からなかったから「長屋」と呼ぶことにした。

「中流」の部分は、タウンハウスのオーナー、住人達が一般に中流階級だから。

そしてその多くは結婚直後か一人目の子供が生まれた若いカップル。そして僕のような中年の独身者達や、以前住んでいた大きな家を売って手頃で管理し易い小さ目の住居にダウンサイズして移り住んだ人たち。僕が住んでいるタウンハウスの住人達も例外無く中流階級だ。

まぁそんな感じでブログのタイトルを決めた、というわけ。

レトロ・ジャパン


今月末に52歳という年齢的なものも影響しているのか、最近レトロな日本に目が行ったり、関心を呼び起こされたりすることが増えた。昭和33年生まれだからか、時代設定がその頃の映画などに出会うと、自分が生まれた頃には日本はどんな様子だったのかなどが気になったりする。例えば「ALWAYS:三丁目の夕日」では昭和33年に当時まだ建設中の東京タワーのCGなんかが画面に出ると、「おお〜」と一人で感心してしまったり、「オリオン座からの招待状」ではその頃の京都のCGを観ただけで感激したり、なのだ。

カラーテレビが登場した頃の事もかなり鮮明な記憶がある。まだ幼稚園に居た頃、東京オリンピックに向けて聖火ランナーが平安神宮と京都会館の前を走ったのを見た記憶も。

自分が生まれた当時の様子を再現した映画のシーンで見る限り、あの頃はまだ子供はもちろん大人達にも「イノセンス」、つまり無垢で純情なところが十分あったのだと思う。そんな考えが次々と浮かんで来ると、最近つまり日本のバブル崩壊後に生まれた世代が、自分たちが生まれた頃の日本を振り返るようになったら、一体どのように感じるのだろうか?とも考えたりする。

「あの頃は良かった」という考えばかりには固執したくない。今僕が置かれている状況は911同時テロ後のアメリカだし、日本へ行ってもバブル崩壊後の日本はまた続いている。何も元には戻らないから。とすれば、前を向くしか無い。