1.21.2012

「温度差」

前回のブログで東北大震災や福島原発事故、放射能汚染などの「温度差」について考えてみる、と書いた。それ以来あれこれ考えてみた。その都度頭の中に浮かんだ事を書いてみようとも思ったが、実際には書かなかった。しばらくしてある程冷静になってツイッターで入ってくる情報や自分の考えの整理をしてみたら、僕が感じている「温度差」というものの本質が見えてきたような気がする。

生半可な考えをブログに垂れ流さなくて良かった、と思う。

僕の所在地はアメリカだ。従っていろんなことが起こっている日本は離れた所から見ていることになる。太平洋を隔てた北アメリカ大陸から日本を見た場合、物理的な距離感を感じるのは当然だ。実際、僕は311以前も以降も幸いな事に大した地震は体験していない。東北や関東に住む人々のように実際に大きな揺れを感じ、恐怖を感じ、今口にしている食べ物が放射能に汚染されているのではないかと疑う気持ちなどは体験していない訳だから、それに関してはどうこう言える立場ではないだろう。

そう言った温度差がある事は間違いない。が、今の社会ではもう一つの「温度差」がある。それ’はどうやら僕が日本国内に居らず、対岸の火事的に日本を見ていることがその原因ではない。ではなにがその根底にあるのか?それは情報源だと考えている。

3・11以来ネットで多くの人達が言っているのは、(1)どの情報源を正しい情報が発信される場所として選ぶ能力、(2)そこから出てくる情報を基にして自分の判断や行動を決める能力、この2つの能力、才覚が必要な時代だ、という事である。正しい意見だと考える。 放射能汚染が進む日本国内でそれらの能力が生死の境目になる可能性は充分にある。

家族、友達、知人の間での会話や議論もその情報に基づいて発言することになる。大手メディアの報道もその情報を基に判断するようになる。今の日本の現実もその情報を基に個人の頭の中で構築されるようになる。

時代は正に映画「The Matrix」の世界になった。いや、さらに正確に表現するなら、時代はようやく映画「The Matrix」のような世界観や自己認識を持つようになった、と言った方が良い。なぜなら、今までわれわれは明確にその区別をすることなく、自分が持つ情報によって現実が構築されていると考える人はごく少なかったからだ。

日本国内に住んでいる人たちには、海外に長く住んでいる日本人が日本に関する最新情報には疎いという先入観があるらしい。ネットがある世界ではもはやその先入観は化石のごときものだと考えて良いだろう。そして、日本国内に居る、居ないとでは体感するレベルも異なるだろう。しかし、情報を基にして現実や意見が作られるなら、物理的な所在地が持つ影響力は減少すると考えざるを得ない。

今後そのネットに潜むエネルギーが日本という社会にどこまで影響を与え得るのだろうか?